気づいたら、また口ずさんでた。
なにげない日常の中で、ジブリのメロディがふっと出てくる瞬間がある。
夕方の帰り道、コーヒーをいれる音を聞きながら、洗濯物をたたみながら……特別な意味もなく、でもすごく自然に出てくる。
『風の通り道!?』とか『君をのせて!?』とか、あまりタイトルは覚えていないけど、まるで呼吸のように流れ出してくる。たぶん自分の中で何かと結びついてるんだと思う。
で、不思議なことに、そのメロディを口にした瞬間、ふっと風景が立ち上がってくる。
通学路、夕立のあと、夏の匂い。
頭じゃなくて身体が覚えてる景色。
大人になった今でも、ジブリ音楽がきっかけで“あの頃の自分”に一瞬戻れる。
時間を飛び越えて、風景と感情がワンセットで蘇ってくる感じがある。
久石譲さんの音楽って、ただ「いい曲」っていうより、“風景が宿る音”なんじゃないかって思うんだ。
今日はそのことを、音づくりに携わる視点から、自分なりに感じたこと・考えたことをゆるっと綴ってみたいと思います。
1. 「音の中の余白」が心に風景を描く
自然に口ずさんでしまうジブリの音楽
ジブリの音楽って、いわゆるポップスみたいな“フック”が強いわけじゃない。
むしろ拍の取り方が曖昧!?だったり、テンポも流動的!?だったりする。
だけど、なぜか口が覚えてる。
それって、もしかするとメロディの“自然な呼吸感”によるものかもしれない。
どこか“歌いやすい”というより“呼吸しやすい”音なんだよね。
言葉にすると難しいけど、人間の身体のリズムにすっと馴染んでいるというか。
作る立場で言えば、譜面上の“間”とか、微妙な音の長さの揺れをどう設計するか——そこに「口ずさみたくなる」秘密があるのかななんて。
映像とメロディの“あいだ”に漂う空気
ジブリ作品では、音楽がセリフのように説明したり、感情を押し付けてくることがない。
印象的なのは“音がシーンを演出している”というより、
“音と映像のあいだに、空気が生まれている”っていう感覚。
たとえば『となりのトトロ』のバス停の雨のシーン。
音楽が流れ出すタイミングと止まるタイミング、音量のグラデーション、音色の湿度。
それらすべてで「あの空気感」をつくってる。
それって、音と映像が“正面から向き合うんでなく、ちゃんと寄り添ってからこそできることなんだと思う。
音楽が風景を“包む”という在り方
でもジブリ音楽って、映画の“背景”に回ってるようでいて、実は風景の“輪郭”をなぞってる感じがする。
音が空間を包み込むように配置されていて、映像だけでは描けないニュアンスがそこに浮かび上がってくる。
空気の匂い、肌に触れる風、遠くの音……音楽が“直接語らない”ことで、むしろ感じ取れる要素が増える。これは映画音楽の技法としても深くて、音が“補完”じゃなく“共鳴”している感覚すらする。
久石譲のジブリ音楽に感じる“気配”
“気配”って言葉がすごくしっくりくる。
旋律の背後にある「なにか」がずっと佇んでるような感じ。
音数を抑えたシンプルなフレーズなのに、なぜか奥行きがある。
その背景に「言葉にならない何か」が、ずっと漂っている。
『風の通り道』なんかはまさにそう。
どこかで誰かが見守ってくれているような、不思議な安心感がある。
たぶん、あの“気配”は作り込んで演出されたものというより、久石さん自身の音楽への向き合い方から滲み出ているものなんだろうなと、答えのない答えに辿り着いてしまった。
繰り返しのメロディがもたらす余韻
ジブリ音楽は繰り返しが多い。
でも、ただの反復ではなくて、少しずつ“感触”が変わっていく。
フレーズの長さ、和音の変化、音色の差し替え……そういう微細な差が、繰り返しに“深さ”を生んでる。
クリエイター視点でいえば、繰り返しは“聞き流されやすい”リスクもあるけど、そこに“変化する静けさ”を仕込むことで、逆に聴き手の意識を内側に向ける効果がある。
繰り返されることで「心がなじむ」——その設計がすごい。
きっと、技術と想いの合わせ技なんだろう。
2. 記憶と創作にひろがる“余白”というヒント
ジブリ音楽が呼び起こす“私自身”の記憶
曲を聴いた瞬間、なぜか風のにおいを思い出すことってある。
あれって、たぶんメロディが「記憶の鍵」になってるんだと思う。
思い出そうとしてなくても、勝手に開く引き出し。
自分の中に眠っていた“なにか”を、ジブリ音楽がそっとノックしてくる。
それは映画の記憶というより、自分自身の風景。
音楽が感情じゃなく“感覚”に作用するからこそ、生まれる反応なんだと思う。
音の余白が生む、感情をこえた感覚
じゃあその感覚を記憶させている場所は!?と聞かれたら、音の余白なのかもしれないと思った。
嬉しいとか、悲しいとか、そういうはっきりした感情じゃなくて、「なんか胸がいっぱいになる」みたいな。
言葉にならないけど、心のどこかがゆれる。
その“ゆれ”を生むのが、音の余白なんだと思う。
音と音のあいだ、音が鳴っていない瞬間。
そこに想像が入り込める隙間がある。
その隙間に人それぞれの“感覚”が記憶されていく。
覚えていないのに、なつかしい——記憶の不思議
「どこかで聴いたような気がする」っていう感覚。
ジブリ音楽には、そういう“記憶の入り口”がたくさんある気がする。
たぶんそれは、自分の経験とリンクする構造を持っているから。
旋律が素朴かつ親しみやすいのに、何かを“決定づけない”。
だから、誰の中にもある風景と、自然に重なってくるんじゃないかと思う。
そんなメロディが「記憶の鍵」となり記憶を呼び覚ますので、なつかしい。
創作物に「気配」を残すという発想
何かを作るとき、「ちゃんと伝えなきゃ」と思いがち。
でも、久石さんの音楽に触れると、「伝えすぎない」ことの強さを思い出す。
“気配”って、見る人・聴く人にしかわからない。
だからこそ、自分だけの感覚になる。
創作でも、その“触れそうで触れきれない”ものを残すって、すごく大事なことかもしれない。
その上で、久石さんの音楽はキャッチーでのあるから神なのだ。
“感じさせる表現”が創作にもたらす力
最後に思うのは、「感じたことは、時間を超える」ということ。
ジブリ音楽がそうであるように、頭で理解したものよりも、身体が覚えている感覚のほうが、ずっと長く残る。
自分がつくるものにも、そんな感覚が宿せたらいいなと思う。
“伝える”より“感じさせる”。
そこに、作品の奥行きが生まれる気がしてる。
まとめ:風景としての音、余白としての記憶
久石譲さんのジブリ音楽は、
ただの映画音楽じゃなく、
“風景の記憶”そのものになっている気がやはりする。
ただ懐かしいだけじゃなく、
自分の中に静かに眠っていた風景がそっと動き出す感じ。
口ずさんだときに蘇るのは、映画のワンシーンだけじゃない。
自分の記憶や感覚、懐かしさや問いが、音に引き出されて浮かんでくる。
風景を宿す音。
その中にある余白が、私たち一人ひとりの感覚や想像を受けとめてくれる。
だからこそ、そこに心がひらかれる。
創作にも、そんな余白や気配を宿せたら。
クリエイターとしては、その“余白”の力に学ぶことが本当に多い。
「語りすぎない」「感じさせる」「気配を残す」。
それらは未完成だからこそ。深く、強い。
ジブリ音楽のように、自分の作品も誰かの“風景”になれたら。いつか。
そんな思いをこめて、これからも音を紡いでいきたいと思う。


